「来日の背景」
アメリカ・バプテスト宣教同盟(北部バプテスト、後のアメリカンバプテスト連盟)から派遣されたネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻が、1873年(明治6年)2月7日 横浜港に到着し、日本におけるバプテスト伝道が本格化したことを記念して、毎年2月第一主日がバプテストデーとして制定されました。
さてここで、二組の宣教師夫妻が日本に派遣された経緯について考えてみます。
そこには、奴隷解放運動と、ペリー提督来航(1853年)が深く関係しています。
1861年の南北戦争に至った主たる要因である奴隷制度を維持するかどうかは、個別教会の自治を大切にする連帯としてのバプテストでも以前から大きな論争を引き起こし、後に過激な反対派、賛成派、穏健な反対派という三つの団体に分裂しました。
しかし、この国論を二分する中で、『聖書は人権についてどう考えているのか』について教会は深く学ぶことになったのです。1807年生まれのネイサン・ブラウンはそんな中で成長し、やがて宣教師を志します。そして、ビルマ伝道の父、アドニラム・ジャドソンの後継者となるべく派遣され、後にインド・アッサム地方で19年に及ぶ苦難の宣教活動を行なう中、カースト制度によって人権が奪われている社会に『福音を伝える』という熱いスピリットを持ち続けながら、得意の語学力を生かし、アッサム語聖書翻訳を完成させたのです。帰国後、不思議な出会いというか、ネイサン・ブラウンは、ペリー提督来航時に水夫として日本の地を踏み、この新しく世界に登場した国のため宣教師となったジョナサン・ゴーブルから伝道の必要性を熱く説かれます。そして、南北戦争が終結し、機が熟した二人は1873年2月7日に来日、同年3月2日、横浜第一浸礼教会(現在の日本バプテスト横浜教会)を設立します。
来日の前年、65歳のブラウンが残した言葉を紹介し、今回は終わります。
(牧師 藤岡 荘一)
→ その②「バプテストのこだわり」に続く
『今後十年生きて、日本人に神の御言葉を紹介し、
横浜に五十名の信徒を持つ教会ができれば、私の務めは報いられたと思う。』