「バプテストのこだわり」
先週に引き続き、アメリカ・バプテスト宣教同盟(北部バプテスト、後のアメリカンバプテスト連盟)から派遣されたネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻が1873年(明治6年)2月7日 横浜港に到着したことを記念して制定されたバプテストデーに絡み、当時の歴史を振り返ります。→ その①「来日の背景」はこちら
その年、キリスト教に対する「禁教の高札」が下ろされると、諸外国からの日本伝道の熱は高まりました。各宣教師達はひとまず横浜の居留地に限り居住が許されたので、互いに協力しながら開国後の福音宣教に思いを巡らしていました。そんな中でバプテストの二人の宣教師は「庶民に向けての伝道」のため、聖書翻訳はギリシャ語の原典から仮名文字に訳すことで一致していましたが、他の主流派の宣教師たちは漢文を理解する「知識人に向けての伝道」を試み、イギリスの欽定訳聖書に従った委員会訳聖書として翻訳を始めました。この大きな宣教方針の違いに加え、ブラウンはバプテスマについて原典に忠実に「浸(しず)め」と訳すことにこだわりました。従って、バプテスマを水につかる浸礼方式で行なわない、滴礼方式の他教派とは初めから大きな意見の隔たりがあったのです。しかし、そのような互いの違いを認め合うことがバプテストのこだわりでもあり、ブラウンは独自に聖書翻訳の刊行を目指しました。このようないきさつによって、後に神戸に発祥したバプテスト教会は「神戸浸(しず)め教会」として設立され、他もほとんどが「浸礼教会」と名乗ったのです。この姿勢は日本においても「互いの違いを認め合うことによって一致する」というバプテストの伝統を生み出していきました。(牧師 藤岡 荘一)
→ その③「ブラウン先生の軌跡」に続く