「ブラウン先生の軌跡」
今月は、アメリカ・バプテスト宣教同盟(北部バプテスト、後のアメリカンバプテスト連盟)から派遣されたネイサン・ブラウン、ジョナサン・ゴーブル両宣教師夫妻が1873年(明治6年)2月7日 横浜港に到着したことを記念して制定されたバプテストデーに絡み、当時の歴史を振り返っています。
→ その①「来日の背景」はこちら
→ その②「バプテストのこだわり」はこちら
来日後、すぐに聖書翻訳に取りかかったブラウン先生は、翌年、息子ピアスさんを印刷技師として来日させ、「ミッション・プレス」という独自の印刷所を作りました。伝道のための大切な手段を他に頼らないというバプテストの自立性はこのような面にも現れています。そして最初の印刷物である『聖書之抄書』という礼拝手引書を皮切りに、賛美歌集やパンフレットなども含めた初期のバプテスト教会刊行物すべてを出版し、1879年、遂に日本語初の新約聖書全訳を完成させます。その後も、教会の務めと翻訳と出版に仕え、1886年1月1日の夕刻、横浜の自宅で愛する家族や友人たちに看取られながら78歳で福音宣教に駆け抜けたこの世の生涯を終えました。ちょうどその二年前の日記には、このように記されています。
「私は地上に生きるべく僅かに残された日々を、この愛する民衆のために、人々の尊敬を受けない民衆のすべてに捧げたい。金持ちと同じに貧しい人々を考え、また彼らも等しく読むことの出来る言葉を持つ権利ある者だと見做しながら。」
ブラウン先生は、ビルマやインド、また、日本への伝道を通して「世界共通の表記文字」を夢見ていました。それは彼のこのような姿勢、どんな人にでも聖書が読むことができ、その福音の素晴らしさが伝わるようにと祈り続けた思いが、私たちにもまた受け継がれていくのだと思います。彼の亡骸は、横浜外国人墓地の中でも故郷アメリカに一番近い海側に埋葬されています。ぜひ一度お訪ねください。(牧師 藤岡 荘一)
→ その④「神戸への伝道」に続く