1917年5月11日、神戸の病院で一人の宣教師が50歳の生涯を終えて召天しました。その名はルーク・ワシントン・ビッケル。彼はバプテスト神戸地区担当タムソン宣教師からの依頼を受け、1898年に来日した後、翌年から初代福音丸船長として瀬戸内の小さな島々まで巡り、因習深く、個性豊かな島民たちとふれあい、幾多の迫害に耐えながらも、やがて慕われ、彼らに福音を伝えたという類まれなる宣教師でした。私たち教会のルーツに関わるビッケル船長が召天100周年を迎えるこの年、五回にわたって彼の足跡を辿ってみたいと思います。
第一回は、なぜ彼が来日するに至ったか、そのいきさつを記します。1890年の秋、タムソン宣教師が神戸ユニオン教会(当時は居留地、1929年 生田町に移転、さらに1992年 灘区長峰台に移転、旧生田会堂はベーカリー「フロインドリーブ」の店舗・カフェとして使われている)で礼拝メッセージを担当した時、偶然にも母国スコットランドの船舶主アラン夫人が周遊中に立ち寄ったことから「この物語」は始まりました。彼女はかねてから、母国の英雄ベッテルハイム宣教師によって始められた「沖縄への福音宣教」を何とか再開してほしいと願っていました。それにタムソン宣教師は応じ、当時、横浜のバプテスト神学校で学んでいた原三千之助を沖縄に遣わします。そのやりとりの中で、「もし沖縄伝道が軌道に乗ったら、瀬戸内海の小さな島々にも福音を伝えたい」とアラン夫人に希望しました。二年後、その意思は息子ロバート・アランに伝えられ、内海伝道のために船を建造する費用が献げられたのです。世界の裏側から来た同じ島国の母子によって、富国強兵と殖産興業に明け暮れる国の中で見落とされていた「沖縄と瀬戸内の小さな島々」への福音宣教が開始されたのです。そしてすぐさま白羽の矢が立ったのは、ドイツのバプテスト指導者フィリップ・ビッケルの息子で、海に憧れ水夫として腕を磨いた後、ロンドン・バプテスト出版協会の支配人として30歳の働き盛りを迎え、妻と息子の三人で睦まじく暮らしていたルークでありました。
(牧師 藤岡荘一)
Lantern Slide ‘Captain Bickel’
Courtesy of the Bridwell Library Special Collections,
Perkins School of Theology, Southern Methodist University
初代福音丸船長 L. W. ビッケル(1866‐1917)
<参考文献>
「島々の伝道者 – ビッケル船長の生涯」 沢野正幸編集/キリスト教新生会
「バプテストの内海福音丸伝道」 大島良雄著/ダビデ社