1917年5月11日、神戸の病院で一人の宣教師が50歳の生涯を終えて召天しました。その名はルーク・ワシントン・ビッケル。彼はバプテスト神戸地区担当タムソン宣教師からの依頼を受け、1898年に来日した後、翌年から初代福音丸船長として瀬戸内の小さな島々まで巡り、因習深く、個性豊かな島民たちとふれあい、幾多の迫害に耐えながらも、やがて慕われ、彼らに福音を伝えたという類まれなる宣教師でした。私たち教会のルーツに関わるビッケル船長が召天100周年を迎えるこの年、五回にわたって彼の足跡を辿ってみたいと思います。
第四話は「福音丸伝道の最盛期」について記します。福音丸による伝道は幾多の迫害を乗り越えて、着実に島々に根付いていきました。1906年、生口島瀬戸田、1910年、周防大島安下庄に、それぞれ現在でいう幼稚園が設立され、また驚くべきことに、1913年6月、「新しい福音丸」の献船式開会礼拝を、その年、瀬戸田に建てられた新しい公会堂のこけら落としに使ってほしい、と町の当局者が申し出たのです。その日は朝から九名のバプテスマ式、午後は代議士や文部省代表、町村長や各学校長だけでなく、漁師、百姓、工員、商人、すべての人々が船に招かれ、夜には教会総会・親睦会と、まさに「天の喜びが地に起きたような一日」でした。そのすべてに出席したカンヴァース宣教師(横浜英和女学校・捜真女学校の校長として婦女子教育に多大な貢献)は以下の感想を報告しています。
「この集会で一番印象に残ったのは、そこには教育を受けた者と無学の者、金持ちと貧しい人とが入り混じっていたが、階級的な差別がなく、愛情と暖かいクリスチャンの交わりがあったことである。」
そして訪れた新しい福音丸の1915~16年は、伝道の実りと時代のうねりが大きくぶつかり合う年でした。前の年に始まった第一次世界大戦は、各国の経済を揺るがし、物価の高騰と献金の減少を招き、各定住牧師の生活もままならない中、なおかつ伝道の地は、平戸・五島列島にまで及び、福音丸教会の信徒三百名をはじめ多くの求道者、教会学校の生徒は四千人と、ビッケル先生にかかる重圧と期待は正に「苦難と希望」でありました。二十年に及ぶ異国での暮らし、船の移動と集会、弟子や船員の教育、本国への報告、家族に注ぐ愛情、その大きな収穫と共に「この物語」は私たちに思いも寄らない結末をもたらしていくのでした。(牧師 藤岡荘一)