1917年5月11日、神戸の病院で一人の宣教師が50歳の生涯を終えて召天しました。その名はルーク・ワシントン・ビッケル。彼はバプテスト神戸地区担当タムソン宣教師からの依頼を受け、1898年に来日した後、翌年から初代福音丸船長として瀬戸内の小さな島々まで巡り、因習深く、個性豊かな島民たちとふれあい、幾多の迫害に耐えながらも、やがて慕われ、彼らに福音を伝えたという類まれなる宣教師でした。私たち教会のルーツに関わるビッケル船長が召天100周年を迎えるこの年、五回にわたって彼の足跡を辿ってみたいと思います。
第二話は「福音丸出航」について記します。極東の島国日本、しかも大小四千近い島から成る瀬戸内海諸島への伝道という依頼を受けたビッケル先生は、それを神の呼びかけと受け止め、1898年5月に妻子を連れて来日し、早速、日本語の学習と福音丸の建造に取り組みます。船はアラン親子と同じグラスゴーのヨット設計者G. L. ワトソン、建造は横浜で出会ったクックという腕の立つ職人に依頼し、一番の特徴である「頑丈と便利と清潔ということであって、装飾は全く施さなかった」という全長85フィート・二本マストの見事な帆船が完成し、1899年9月13日に横浜の本牧埠頭で献船式が行われました。そして神戸に向けて出航し、同年12月2日、満を持して兵庫湾から瀬戸内の島々へと旅立ちます。その時の先生は、「私は十年間は目に見える成果を求めないで、神が私に力を与える限り働きます」と報告し、この伝道の旅が決して簡単なものではないことを覚悟していました。しかしこの背後には、アラン夫人の「沖縄と同様、この小さな島一つ一つの住民が神に省みられるように」という切なる祈りがあったこと、また、福音丸伝道のための諸経費はアメリカの教会学校で子どもたちが呼びかけた献金で賄われたこと、この二つは忘れることができません。初めに錨が降ろされたのは小豆島、それから初出航の三カ月、13の島50か所で集会を開いたと記録されています。島によって歓迎されるところ、厳しい尋問を受けるところ、拒絶されるところとさまざまでしたが、ビッケル先生は「その島で評判の良い個人の家」で集会を開くのを旨としていました。その中の一人、生口島瀬戸田町で塩田業を営む宮地家の長男、藤四郎氏は島内で初めてバプテスマを受け、後に神戸バプテスト教会執事として働き、その孫である濵野千世はこの西岡本キリスト教会で今も信仰生活を守っています。(牧師 藤岡荘一)